2012/03/15

ダーツを知ったのは神戸のキングズアームズだった。

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ダーツなんて暇つぶしを教えて呉れたのは、
神戸にあった英国式パブ・キングズアームズだった。

その頃の港町神戸は外国の貨物船の出入りが多かった。
上級船員と下級船員の呑む場所は歴然と区分されていたが、
キングズアームズは船長や一等航海士用のパブだった。

ローズウッドの壁や天井に貼られた何百枚もの名刺は
茶色く変色しキングスアームズの歴史を物語っていた。
奥のマントルピースでは薪がパチパチと燃え、
老船長がロッキングチェアーで新聞を読み居眠りし、
海賊船に積まれている様な大きな衣装ビツには、
ヒゲ面の船員が座って葉巻を燻らせていた。
立ち飲みのカウンターではビールを頼む度にお金を渡し、
お金を賭けたダーツが盛上がっていた。

当時、日本人が出入りするパブでは無かったが、
海外に憧れていた僕はキングズアームズでよく呑んだ。
映画でしか海外の情報を得られない時代だったから、
外国船員との片言英語での会話は勉強になった。
そして、彼らにダーツを教えられカモにされていた。

1ドル350円の時代で外国留学など夢であったし、
現地での身元引き受け人を必要とする時代だった。
フルブライト留学と言う方法はあったが、
優秀な学生や研究者が年に数名しか選ばれない難しさだから
劣等生の僕などは論外であった。
アメリカの新聞に身元引受依頼の広告を必死で出している
ESS(英語研究会)の優秀な友人も居たが、
留学するには、密航するしか不可能だった頃である。

事実、密航に成功したさる有名人を知っている。
正式にフルブライトで留学された方々は
外貨持出制限などで苦労を重ねながら学位を収め、
荒廃した日本の復興を指導者として牽引した。

ベースボードは捨てたが的だけ玄関横の壁に吊るし風雨に晒されている。


あの頃はダートボードを寝室のドアに取付けて、
目覚めるとベッドから投げる。
そんな虚無的な日々を気取りたかった。

写真の公式戦で使われるボードや自前のダートは、
テレ朝通りにあったダーツバーで買ったモノだ。
英国製 97% Tungsten Nickelの木箱入りが自慢だったが、
腕の方は最悪だった。

その後、僕の会社近くの外人客が多かったダーツパブ。
毎日夕方になるとビールを呑みには出掛けたが、
もうダーツには興味を失っていた・・・





...

4 comments:

s-geru said...

keijiさんが神戸の事を掲載されると、本当に懐かしく青春が蘇ります。40年以上も前の事で記憶が曖昧ですが、キングスアームスは多分花時計の海側にある公園の前の地下にあったお店でしょうか?僕らには敷居が高かったです。あの頃は夜中に営業している甲子園のセブン、ホッチキス、逆瀬川ドムス、などへ集合し六甲、芦有、43号線などを走り回りました。KSCC、ART,などのチームステッカーを貼っり、ローダウン、ロールバー、内張り外し、ベレットGTR、スカGB、フエアレディー、sss、アルファロメオ1750、ミニクパーS、ムスタング、カマロなどが全盛でした。フアッションは勿論アイビーでした!!本当に懐かしいです。

pepekeiji said...

S-GERUさん、

フラワーロードに市庁舎が建ち花時計が出来た頃、1957年頃?
キングズアームズも後半は2階で食べられるローストビーフが
有名になり神戸の洒落者が行く様になったのですが、
僕が行ってた頃は日本人の客は居なかった。

まだ第2阪神道路は建設中で車は通行出来なかったのですが、
夜になると甲子園キャンプの米兵が0−400を競っていた時代。
サンダーバード、フェアレーン、プリムス、コルベットなど、
アメ車しか車とは思えなかった時代。
後には日本車も参加する様になりグローリアやスカイライン、
ダットサン1000にグローリアの6気筒積んだ人まで現れた。

KSCCは古くからのクラブ、憶えています。
ベレG、スカG-A/B、SSS、クーパーS、ムスタングなどは、
僕が大学を卒業してから登場した車だったなあ〜。
その頃は何故か僕は卵形のタウナスが好きだった。
宝塚のジャズの店チェックや宝塚の研女は無料で多かった
松風閣のプールでナンパしたり、
毎晩の様に、六甲山や再度山に登っていました。

s-geru said...

57年は子供なので、1969年頃だったと思います。
多分あれがキングスロードだと思います。
僕達は場違いだったので1回きりでした。
やはり六甲などを走りまわっておられたとは、
益々親しみを感じ嬉しくなります。
その頃にお会いしていたら、絶対に子分になっています。
スカGのAは青バッチBは赤バッチ
タウナスは懐かしいですねー、タウナスは子供の頃ですが
形も覚えています!
チェックは友達が結婚式の2次会をしました。何しろ青春一杯です!

pepekeiji said...

まだ、六甲登山道にはガードレールが無く、
トンネル出口で人影のお化けが出ると言われていた頃。
信号GPで後ろから出たスカGのBに抜かれ頭に来て、
ステージ3(圧縮比を上げ、ポートを広げ、軽量フライホイール、
Wのバルブスプリングを入れ、強化サスで車高ダウン。)
後輪は八の字に開き、真直ぐバック出来ないベレGだった。
会社は毎朝遅刻王、夕方4時半には帰り支度の給料泥棒。
会社にはずいぶん迷惑を掛けましたが、ボスがカッコいい方で、
僕が頼む給料の前借りを、いつも経理に話を付けてくれました。
また、海外で買って来たヴァセロン・コンスタンチンの時計を、
日本で巨人の水原監督とワシしか持って無いと、こっそりと
僕には語ったる様な方で、ずいぶん世話になりました。
ボスのクルマは白と水色ツートーンのフォードフェアレーン。
また、モーターボートが日活の撮影に使われたり、
神戸在住の画家のパトロンとなっている立派なボスでした。

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