2012/01/18

我が青春のスピットファイアー

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1964年のルマン24時間を戦ったスピットファイア(ADU1B/2B)は
今見ても実に魅力的だ。


昔、スピットファイアのカタログは物語風になっていた。
少女と鉄道員の若い恋を描いた写真に僕は夢を見た。
OHVエンジンは非力だったがX型バックボーンフレームは堅固で、
箱根で振り回してもMG-Midgetの様に捩じれなかった。
またライバルのMGよりもトライアンフは野性的で、
ミケロッティのカースタイリングはとても魅力的だった。

当時、アメリカの安全規制によりオープンスポーツカーが
この世から無くなると噂が流れていた。
もう新車で買えるのはスピットファイアしか無くなっていた。
輸入発売元の阿部モータースにも残り3台しか無いと言う、
急いで僕はVWカブリオレを走らせた。


スピットの出力は米国の排ガス規制でエアーポンプが付き、
英国仕様でも僅かDIN71hp/5500rpmしか無かったから、
速く走るにはトルクカーブを意識したシフトワークが要求された。
しかし、それはスポーツカーを操る喜びでもあった。

排ガスを再燃させるエアーポンプなど納車と共に取外した。
ルマン仕様を真似てウエーバー2基を搭載するため、
英国からマニホールドを輸入し圧縮比も上げた。
また、日本人初のF1ロータス/フィッツバルディのメカだった
今は亡き伊藤さんに燃焼室の形状を変えて貰うなど、
かなり高度なチューニングを施していた。


つくづく思う。動力源が電気や水素に変わっても、
豪華な部屋が移動する様なクルマでは無く、
昔のライトウエイトスポーツカーが若者達に与えて呉れた
大空を舞う鳥の様な自由さと、風と同化する喜びを、
残して欲しいと願ってしまう。

また、若者は分不相応な高級高性能車を志向して、
修理代にビクビクするのでは無く、
負担にならないレベルのクルマで青春を謳歌して欲しい。
ドアを足で蹴って閉める様な男っぽさを演出して欲しい。






ウエーバーの発売元FET極東が出した当時のマニュアルに挟まれたメモにはベンチュリー径やエマルションチューブやジェット類のセッティングで悩んだ数字が書き込まれている。鉄のホイールを鉄リングでリム巾を広げタイヤはレーシングG5を常時履いていた。
頑丈で重かった純正のハードトップ。コレを付けて東京から関西の実家まで定期的に往復していた。冬の名神高速ではタイヤにチェーンを巻いて走った。


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