この赤いファイルは約40年も昔
リーガル・フランチャイズ・ショップ展開のために
僕が描いたイラストとデザインである
今朝は元VANジャケットに在籍された方から
このブログへのメールを頂いた
嬉しくなってこのファイルを想い出した
若い方にはVANと言って解らないだろうが
「VANが先生だった」と言われるほど
日本男性の服装やライフスタイルに
多大な影響を与えた偉大な企業だった
この赤いファイルはVANのモノでは無いが
同じアイビーと人気の高かったリーガルシューズの
全国展開のためのショップ・マニュアルである
当時の僕はイメージ構築に関わっていた
男4人のイラストは当時好きだった
M J Q モダン・ジャズ・クァルテットの
影響を強く受けている
表紙のタイポグラフィーも60年代の
アメリカン・スタイルだなあ〜
...
11 comments:
keijiさんのブログに取り上げて頂き本当に光栄です、有難うございます。keijiさんの動物、植物に対する優しさ、ライフスタイルの粋、センス、自然、教養,育ち、全てがカッコよく衝撃をうけました。本当に最高です。白須次郎さんの事を知った時の様に衝撃を受け大フアンになりました。これからも宜しく御願い致します。
s-geruさん、
身に余るお褒めコメント有り難うございます。照れてしまいます。
子供のままで大人になってしまった身勝手な男ですから・・・
拙いブログですが少しでも綺麗な画面と言葉をと心掛けています。
色々と、ご感想やご意見等お聞かせ頂ければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
60年代の平凡出版社とVANは、後からやって来た世代にとっては溜息の出るような職場環境だったようですね。
今の企業でこんな夢ある日々を過ごせる所はあるんでしょうか、就職難でそれどころじゃないか。
そう、別に夢を持って働くなんて甘いことを言ってられる時代と言うより、端からそんな気概と労働は切り離されているのでしょう。
されど、挫けるな若い人と言いたいです。
habaneraさん、
夢の様な職場環境でしたが、「猛烈!」の時代でもありました。
常に24時間営業!生馬の目を抜く過当競争社会でした。
僕は国文専攻だったため就職出来ず苦労しました。
小さなデザイン事務所を転々と10年ほど渡り歩きましたが、
大手代理店のクリエイティブディレクターになり、
また設立した広告会社経営でも苦労時代の経験が役立ちました。
いつの世も夢を持つ若者に世間は荒波なのかも知れません。
京大の入試で、権威主義の老教授達を見事に欺いた受験生、
彼の様な若者が受入れられる社会への意識改革を僕は望みます。
現在、石津 祥介(石津 謙介社長のご子息)さんの基で、VANヂャケットOB会が3年毎に開催され、約130人前後のOBが集まり、当時の話に花を咲かせています。
皆、アイビールックが好きで、石津 謙介社長が好きで社員になった者ばかりと認識します。
今は、皆さん年をとってはいますが、根底にあるアイビースピリットは残っており感覚的におしゃれに年をとっています。
VANの社員であった事に誇りを持てている事が自分の精神の根底にあり、有意義に人生が遅れている事に感謝しています。
現在の社会は、特化する物が少なく、何に魅力を感じ、何に興味を持ち、何を目指すのかが不明な世に思う所が、昔と少し違う様に思います。
我々VANのOB仲間で、このサイトの話をよくします。
KEIJIさんは我々の夢です。いつまでも、夢を与えてください。
匿名さん、
VANジャケットOB会、さぞかし素晴らしい集まりでしょうね〜
石津謙介氏はVANを通じて我々に人生哲学を教えて下さいました。
車なんかコレでいいと石津氏が乗られていたMG1100、
骨董通りのカフェで横の席に座られた石津謙介氏を想い出します。
石津祥介氏は、確か第1回日本グランプリにトライアンフTR4で
出場されたと記憶しています。
当時は、式場荘吉氏、三保敬太郎氏など憧れた方々でしたが、
後になってお話しする機会にも恵まれました。
式場荘吉さんがレースで優勝した時、カップを掲げながら、
当時トップモデルだった女性とお立ち台でキスしたダンディな姿、
彼こそ、最後のゼントルマン・レーシングドライバーでした。
VANmini世代のshowです。こんばんわ。
ご無沙汰いたしております。
まだまだ寒そうですが、今月には、山の広場に遊びに行きたいと思っております。
数年前、Kentのパターンメードで夏用スーツを新調しました。無理を言って、3釦段返りモデルのラペルをステッチではなく、袋縫いにしてもらいました。久しぶりの3釦でしたが、出来上がりのVゾーンの感じが、昔(私が中学生の時、制服として着ていました)のKentと少し違っていたので、直してもらいました。やはり昔の記憶は正しく、わずかですが、仕上げを間違えていたようです。
私もVANから受けた影響は、とても大きなものだったと思います。それにしても、ブランドイメージを長期に維持することは、とても難しく、変化に対応しないとブランドが存続ができない。また変化に対応し過ぎると、イメージが存続できない・・・。シリコンサイクルのように、何度もイメージを変えて復活するブランドは、とても少ないように感じます。
こんなことを言っている私は、10代、20代の人たちから見れば、実に野暮ったく映り、完全に賞味期限切れだと自覚してます。
また山の広場でお会いできることを、楽しみにしております。よろしくお願いします。
showさんはVANmini世代でしたね。
3釦ステッチ無しの袋縫いラベルのサマースーツ、素敵ですね。
kentが制服だったのですか?羨ましい学校のご卒業生ですね〜
僕の時代は金釦の学生服、母のミシンを使ってズボンを細めたり、
袖の釦の数を増やしたり苦労したものです。アハハ
貴方の様なダンディボーイが賞味期限切れ?ご謙遜でしょ。
男の服装に流行は存在し無いことをご存知なのに・・・
keijiさんVANリーガルマニュアルですね、本当に懐かしいですbassのスリッポンセパゴなど三宮のボンドに買いに行った高校時代を思い出します。
メールでの返信有難うございました。原宿の思い出は高校の時代の先輩が東京の大学に行きパブリカのコンパーチブル、トヨタのS8を購入し原宿族でVANのスタジアムジャンパーをきて原宿カットをして我々も真似て憧れました。大学時代は410SSSで2号線の甲子園のセブン?逆瀬川のドムスなど集まったものです。本当に良き時代でした。
s-geruさん、
当時、流行は神戸からと言われ、東京なんか田舎と思っていました。
当時のBass Weejunsのロファーは、まだ何処かにあるかも・・・
三宮のパブ・キングズアームズで外国船の船長や一等航海士達から
賭けダーツと服の着方を学びました。
パブリカ・コンバーチブル、トヨタS800、3S、懐かしいですね〜
僕の最初のクルマはベレットGT、毎晩六甲山に登っていました。
三宮は変わってしまいましたが、まだ阪急芦屋川の辺りは
昔の面影が残ってますね〜
神戸の話鳥肌が立ちました!!母方の祖父が戦前外国航路のキャプテンをしており(ブラジル丸、バイカル......)長い航海を終え神戸港入港時、幼少の母に教える為、打出沖で帰国の合図を母にしてくれたと良く話してくれました、粋な話です。keijiさんベレGですね、あの短いシフトレバーでカチ、カチと入る感触今も覚えております、ローダウンしロールバーを入れタイヤをハの字になりコーナーを責めるベレGは最高でした。外車はムスタングなどアメ車が幅を利かせヨーロッパ車ではミニクーパーマーク1の10インチなど最高でした.本当に色々青春を思い出しました、有難うございます。
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